日本における企業広報の歴史

第2次世界大戦時における広報の考え方

今日、さまざまな組織体において広範に使われている広報の考え方は、民主主義と自由経済を旗印に繁栄を先導してきたアメリカで誕生したといわれ、日本への導入は、第2次世界大戦後、連合軍最高司令部GHQの対日民主化方針の提唱とともに始まったといわれている。しかしながら、日本の学術界では、すでに1930年代初頭から広報を意識し始めたと理解できる。

宣伝理論がコミュニケーション手法として扱われた第2次世界大戦時には、単に自らを正当化し、それを相手に承服させるために行われた広報活動であったとしてしかかれない。1943年に日本陸軍参謀本部より作成された『対敵宣伝放送の原理』に記された宣伝原理、「事実の単なる羅列は、宣伝放送としては最も忌むところである。……演劇は、……事実よりも誇張して表現されている。……宣伝放送もまた同様であって、……事実の有無よりも如何に放送することが相手の興味を惹き、且つこちらの目的に最も添うか、といふことを第一に考えて演出すればよいのである

第2次世界大戦後における広報の導入

(1)行政機における広報の導入
第2次世界大戦後の日本は、GHQの占領下に置かれ、民主主義方針の徹底が推されたが、それが、アメリカの広報が日本へ導入された契機となる。具体的には、まず、GHQは、1945年9月に対日改革方針を発表するとともに、民間情報教育局(CIE)も発足させた。この対日改革方針は、行政の側面からみれば、平和的で任ある日本政府の樹立と自由な国民の意思による政治形態の確立をうたうものであった。このように民主主義方針がめられるなか、宣伝の役割を果たしていた戦時内情報局は1945年12月に廃止され、翌年10月に再編成が行なわれた。その時、CIEは、世論動向調査の要性を強調すると同時に、世論調査機の設置を示唆し、それが企画資料部世論調査課の新設につながったのである。つぎに、CIEは、行政機で広報部門の設置を推するために、1947年の春から各地方の軍政部を通じて、本格的に広報部門PublicRelationsOfficeの設置を要求した。当時、富山県庁の職員であり、県行政機への広報部門の設置に大きくわった樋上亮一の回想によれば、CIEが求めていた広報部門の主な役割は、行政政策として正確な情報を県民に提供し、県民自身にそれを判断させ、県民の自由な意志を発表させることに努めることであったとされる。
加えて、CIEは、行政広報の役割を一層浸透させるために、1949年7月から10月にかけて13回にわたる広報講習会を開催した。講習会の主な狙いは、民主政府の役割と、国民の知る権利に奉仕すべき政府の任を強調することであった。主な内容は、広報活動を行う際に必要とされる広報技術、すなわち、広報媒体を利用し、広報戦略を展開することであった。この講習会の開催を契機に、行政機における広報意識は一層高まり、1949年12月までに全国の都府県で30にする独立広報部門が設置されたといわれている。

(2)民間組織体における広報の導入
民間組織体における広報の必要性は、①企画資料部世論調査課が設立された当時に、顧問に就任していた小山栄三、②富山県庁の広報部門の設置にわっていた樋上亮一、③電通外国部長の田中寛次郎、④村證券の奥村綱雄、等々の人物より提唱されたものと考えられる。
まず、小山栄三は、1949年6月に新設された国立世論研究所の所長としても活躍し、1954年に『広報学』という書籍も発表した。そのなかで、「民間団体は政府の内部の状況を十分に知っておく必要があるとともに、政府の職員にもその団体の事情を知ってもらう必要がある」と主張し、民間団体における広報の必要性を提唱したものと考えられる。つぎに、樋上1953aは、「民主社会においては、世間の評判をよくし相手の信を得て世論の支持を得るのでなければ、個人も会社も団体も、大きくいえば国家も結局その存在と発展とを許されないのが理である」として広報の必要性を提唱した。また、樋上は、「理解こそ民主政治が成功し、永久に栄えてゆくための基本であり、それには、言葉や行動などのあらゆる表現を用いて絶えず明し、理解を深めなければならず、その大半を占める有力な活動分が広報である」と記して広報の役割を強調した。加えて、広告会社である電通は、1949年7月に第1回夏季広告講習会を開催した。その際に、電通外国部長の田中寛次郎は、アメリカの広報について講演を行い、講演の冒頭で、「アメリカにおける広報の考え方は、必ず日本の企業経営に新生面をもたらすはずである」と、企業における広報の必要性を強調した。さらに、証券業界では、1947年12月に開催された「証券民主化促全国大会」を契機に、証券民主化の考え方が急に広まり、それにともなう広報活動の必要性も意識し始める。なかでも、村證券の奥村綱雄は、「近代の企業は、公共福祉に反するものは、その存在を拒否される。PR運動の要旨は企業自体が自ら公衆に知ってもらい、その好意によって自らも発展しようとする運動である」時事新報1950年8月30日付と企業における広報活動の必要性を強調した。このように、第2次世界大戦後の日本における広報の導入は、①日本を民主主義国家として再生させるために行われた行政広報と、②企業が社会の容を得ると同時に、健全な発展を目指すために行われた企業広報、といった2つの側面から形成されたと考えられる。

 

「期待応答型広報」の展開と「広報革新期」の到来
こうしたなか、どのような企業広報の考え方が適切なのかをみていきたい。企業は、その企業を取り巻くさまざまな利害係者と信係を構築することによって、企業競争力も強化され、一定のリスクも回避できるといわれている。そこで、利害係者と信係を構築するための広報活動を展開する場合、大きく以下の2点に点を置くべきだと考える。1つは、利害係者の各々を、特性を持った広報対象として捉えるべきである。Freeman,F.E.1984が指摘したように、利害係者とは、ある組織体の目標や政策、決断や行動などを起こすことに一定の影響を与える「一群の人々」または1個人であるとされる。
また、Grunig,J.E.&Hunt,T.1984では、広報対象となるパブリックは、ある一定の議や問に対して共通の意識を持つことによって結合された一群の人々であると指摘し、その問が改善されることを望み、且つ行動が起きることを期待する群体であると主張している。一方、日本においても、松岡1990は「広報」よりも「狭報」という考え方を提唱した。これは、広報の対象となるパブリックを「一般大衆」という広い意味ではなく、利害を同じくする「一群の人々」、その各々を指すことであり、その意味で広いということは要ではない、という主張である。つまり、企業は、利害係者の各々を、特性
を持った広報対象として捉え、個々の利害係者グループの要望や期待、不満に応えるような、的を絞ったいわゆる「期待応答型広報」が大切であると考える。もう1つは、個々の利害係者の自社に対する期待は何かを把握し、その期待に応える広報であるかどうか、を意識しながら展開されるべきである。なぜならば、そもそも各々の利害係者は、異なる性質を持っており、良い製品・サービスを提供してほしいと期待している消費者もいれば、環境保全を確保してほしいと期待している地域住民もいるからである。こうした考え方は、早くもアメリカで第1次世界大戦後の急成長期の1920年代に登場したと思われる。たとえば、Seitel,F.P.1992によれば、1927年にAT&T社の広報担当者かつ副社長に就任したアーサー・ペイジArthurW.Page、1883-1960は、広報活動について会社の行動規範に照らし合わせて5つの広報原則を策定したとされる。なかでも、第1条では、社会に信される企業として存続するには、各々のパブリックを分析することが要であるといった内容が盛り込まれていたことである。したがって、企業が健全な企業経営を展開するならば、利害係者の各々を、特性を持った広報対象として捉え、個々の利害係者グループの要望や期待、不満に応えるような、的を絞ったいわゆる「期待応答型広報」の展開が不可欠な条件の1つとなると確信する。また、これこそ、企業経営の健全な発展を導く要な経営革新の1つとなり、「第2次広報反省期」から「広報革新期」に邁可能な突破口になるかもしれない。6.新しい広報システムの構築と企業経営の健全な発展「期待応答型広報」の実践に向けて、先に何をなすべきであろうか。新しい広報システムの構築に期待を寄せる。まず、広報理念を制定し、企業理念を構成する要な一部分として確立させる必要がある。広報理念には、広報倫理や社会的任といった内容が含まれ、健全な広報理念をく広報活動が展開されるように企業内で浸透を図る必要がある。今から約100年遡ると、パーカー&リー社の創業者であり、「広報の父」とも呼ばれるアイビー・リーIvyLedbetterLee、1877-1934は、1906年にアメリカで起こった炭鉱ストライキをめぐる広報活動にり、炭鉱会社の代弁者でありながら、「原則の宣言DeclarationofPrinciples」を発表し、広報の事実性を主張したのである。つまり、企業広報は利害係者に対して事実をそのまま伝えるべきである、といった革新的な広報理念を提唱したとみることができる。つぎに、企業広報原則を制定し、企業行動規範を構成する要な要素として確立させる必要がある。企業広報原則には、広報活動にわる各担当者の行動指針、広報役割の明確化、広報任の追及などの内容が含まれ、健全な広報行動指針に基づいて広報活動が展開されるための仕組みを構築する必要がある。今から約80年遡ると、1927年にAT&T社の広報担当者かつ副社長だったアーサー・ペイジは、会社の企業行動規範に照らし合わせて5つの広報原則を策定した。その内容は、①社会に信される企業として存続するための条件、②従業員にするさまざまな規定連、③パブリックと公正かつ友好係を結ぶた
めのシステム、④パブリックの質問や批評などの情報をバックアップするシステム、⑤経営行動を常にパブリックに率直に伝えるシステム、より構成されている52。加えて、広報活動にわるすべての従業員が研修を受けることが可能な広報教育システムを構築し、人材育成の要な一部分として確立させる必要がある。広報教育では、広報理念の浸透、広報行動指針の実効性、広報戦略の構築や実行といった研修内容が含まれる広報教育プログラムを展開する必要がある。アメリカの場合は、大学に広報学研究科が設置されているケースが多く、そこを卒業した学生は、少なからず広報分の知識が身に付いていると考えられる。それに対して、日本の大学では、広報学の教育が比較的遅れており、企業が広報教育プログラムを実施するにあたって、ある程度の度が伴うことも念頭に置きながら展開しなければならない。最後に、効果的な広報活動を展開するためには、広報戦略システムを構築し、経営戦略の要な一部分として確立させる必要がある。広報戦略システムを構築するにあたって、まず経営課を把握することが要となる。そのつぎに、広報活動の目的を明確に設定し、
具体的な戦略・戦術を立案し実行するような流れを確立させることが要である。つまり、多くの会社では、広報活動は単なるメディアの窓口と識されているが、経営課と結び付けて戦略的な広報プランを組むことにより、企業価値の向上に大きく献できると考える。こうして構築される広報システムは、広報部門が単独で担うべきではなく、ほかの部門と強い連携係を図ることによって有効性を発揮でき、その最終的任も企業経営者が担わなければならない。これによって、各々の利害係者の期待に応える広報活動を展開することが可能となり、それが最終的に企業経営の健全な発展を導くことになる。